第二話 北の白き大蛇 

 


 崖のような岩山を飛ぶようにして登ってくる奈多(なた)を、柏蛇(はくだ)はじっと見守っていた。
 慌てているし、興奮してもいた。だから声を掛けることも出来なかった。
 登りきるまで、柏蛇はいつ落ちるか肝を冷やしながら待っていた。長く山で暮らしていた者でも避けるような岩壁である。
その頂点は平らになっており、詰めれば三人ほどが座れる程の幅もあった。そして、柏蛇はここから集落を隅々まで見詰めるのが好きだった。
 最後の手を、奈多が岩に掛ける。その手を握り、柏蛇は奈多を引き上げてやった。小さな、軽い体だった。まだ子供なのだ。持ち上げた勢いのままに、奈多が倒れ込む。
 奈多が大息と共に何かを呟いた。鞴(ふいご)のような息に隠れて、はっきりと聞こえない。柏蛇はそっと奈多の口元へ耳を寄せてやった。

「北嶺のルイスが、動いただと?」

 およそ信じられぬ事である。この一月、帝国によって兵糧を断たれに断たれた連合がついに撤退を開始したという報告があったのは昨日のことだ。それまで、ルイスは北から帝都を直接牽制することしかしてこなかった。

「……確かなのだな?」

 ゆっくりと息を整えながら奈多がようやく上体を起こして座り込んだ。まだ肩は上下しているが眼はしっかりとしている。

「はい、まっすぐ帝国軍の本陣の方へ。風のような早さでとても追えませんが、あの方角は間違いなく」

「それが誠ならば、あの騎馬隊だ。明後日の今頃にはもう帝国本陣へ辿り着いているやも知れんが。しかし、まさか三千騎で」

 真実ならば、ルイスはたった三千騎で二十万の帝国軍に挑むことになる。無謀としか思えない。しかし、ルイスはどこかに勝機を見たのだ。
 何度か、ルイスとは共に闘ったことがある。そう信じさせるものをルイスは確かに持っていた。まだこの国の戦乱は明確にその姿を現さず、じっと息をひそめていた頃のことである。柏蛇とはまた別の道を選んだ男。

 賊が溢れていた。そうするしか、生きていけない者たちが多くいた。
 ルイスはそれを狩るように攻め続けたが、柏蛇は一人で百人からなる賊と和解し、帝国の眼も届かない北嶺山脈の奥地に集落を作った。
 それから五年もの時が経っているのだ。里も随分とましなものになった。初めは本当に出来るのかどうか不安も大きかった。それでもやるしかなかった。その為の準備も十分ではなかったが、今では少しずつ家族以外のものを呼ぶことも許せるようになっていた。
 都では、未だウィタラ人の放逐が止まらないと言う。噂を聞きつけて訪ねた者はなるべく受け入れた。受け入れるところが無くなれば、そういったものは賊徒になるしかない。初めは百人足らずだったものが、今では三千近くに増えている。ここに住み、ここで食べ物を得ていく者達がだ。
 この里で、新たに生まれた命すらもあった。みな、頬笑んでいる。その微笑みを見るのが、白蛇と呼ばれた柏蛇の新たな生き甲斐だった。

 こちらから誘いに行くようなことはしない。希望の声は聞こえるが、そうするにはまだ早かった。今行けば、はっきりと帝国に敵対すると言うことになる。少なくとも、それはまだ避けておきたい。
 集落を興すときに世話になったグランからも、今は耐えろと言ってきている。そのグランから、書状が来たのは一月ほど前だった。ついに始めると言う内容である。この五年、調練は十分すぎるほど重ねてきた。それでも、いざ動くとなると違うだろう。足りないものも出てくる。何しろ、今は影も形もない物を作り上げようとしているのだ。
 それでも、やらなければならなかった。守るべきものを、守るためにだ。戦は既に始まっている。それも、想定していた以上の戦だ。たとえこれでルイスがカインを討ち取れずとも、流れは今までとはまるで違うものとなっていくだろう。いや、そうしていかなければならない。

 それでも、柏蛇はルイスが間違っているとも思ってはいなかった。賊に襲われた村は悲惨である。根こそぎ奪われる。抵抗した村は皆殺しにされる。だから黙っているしか無く、黙っていても死ぬ者は死に、生き残った者にも水の一杯すら残されてはいない。
 賊の中にも、村を滅ぼさぬだけの一定の秩序が生まれる時代はとうの昔に終わりを迎えていた。
 だから、これを駆逐する力もまた必要なのだ。何を考えているのかカインはまるで賊に関心を示そうとしない。
一部では、カインと賊が裏で手を結んでいるという話すらあった。しかし、賊の在りようから考えてそれはないだろう、と柏蛇は考えている。
 カインこそが、真の敵。そう考えている者は少なくないのだ。だからこそ、ついに立ち上がった連合に三十万もの人が集まった。そして、敗れた。

「帝国は連合を打ち破り、勝ちに乗ってその半数近くが追撃に出ています。本陣の隙も大きくなっているのかも」

 柏蛇はようやく息を整え始めた奈多を再び見詰めた。この大陸で、同郷の者は珍しい。それだけの理由でなく、奈多は様々なことに眼が届いた。柏蛇を慕ってくれてもいる。だから従者のようにして傍に置いているが、まだ少年だった。たしか、十三か四の筈だ。
 いずれは自分と代わってこの里を背負っていくようにしたい。と言っても、柏蛇もまだ老いるには早い。正確に数えたことはないが、おそらく四十に幾つか届かないぐらいだろう。
 黒い瞳に、黒い髪。この大陸で、黒は珍しい色とされていた。その上、奈多の肌の色は黄色い。柏蛇の肌の色も黄色い。争い合っているウィタラとホスプトラは、共に白いのだ。
 嚥(えん)族と呼ばれる、東に海を渡ったところにある別の大陸に住む人々。だから、この国の混乱を誰よりも客観的に見る事が出来る。

「もしもカインがそんなに甘い男ならば、為す術なく連合に潰されていただろう。それに、追撃に半数を裂いたとしてもまだ十万が本陣には残っているのだ。ルイスは徒を全て併せても五千に過ぎない」

「少数だからこそ、奇襲が可能なのかも知れません」

 柏蛇は唸り、眼を瞑った。いやに自信を持って言うではないか。まるでルイスが勝つところをその眼で見てきたようである。
 しかし柏蛇もまた、興奮し、沸き立つ鳥肌を何とか押さえようとしていた。あの男ならやるかも知れない。どうしようもなく、その思いは柏蛇の中にさえある。
 もしここでルイスがカインの首を取る。すると、どうなるのか。三百年続いた、帝というこの国の頂点がいなくなる。しかも世は既に乱れようとしている。
 その先駆けが、ウィタラ連合だったと言っても良い。連合と言っても、実際は豪族の集合体だった。乱世が、既に起こっていても不思議はなかった。豪族が各々の領地を固め、旗を揚げればそれは数十となりこの国に広がっただろう。ただウィタラ人という種族の繋がりがそれを一つに結びつけた。利に聡い商人の暗躍もあった。
 乱世。ルイスは、本当にそれを引き起こすつもりなのか。秋は、それをルイスに許すのか。その中でルイスは新たな王となるつもりなのか。
 夥しい血が流れる事になる。ルイスは、それも是としたのか。それとも、そこまで考えてはいないのか。また、違う道があるのか。
 ルイスは確かに強い。その騎馬隊もまた精強である。おそらく、同数であの騎馬隊を打ち破れる軍はこの国にないだろう。しかし、十万もの兵の中を駆け抜け堅く守られたカインの首級を上げることなど本当に出来るのか。
 出来る、とルイスは思ったに違いない。そしてルイスは確かに勝ち続けてきた。出来なければ死、ということもやってきた。
 死んだ。柏蛇がそう思っても、ルイスは幾度も生きて返ってきた。今度も、もしや。そこまで考え、はっとした。やはりどうしようもなく、ルイスの存在は胸に焼き付いているようだ。

「危険な男だ。根拠もなく人を信じさせる。いっそ、この戦で死んでくれれば少しは気が抜ける」

「はぁ……」

「どちらが勝つにしろ、もう暫く我らは傍観者でいるべきだ。この国の戦乱のその先を見据えて動かなければならないのだからな。なにしろどこも守ってはくれない、三千近くもの民を抱えている。放っておいてくれさえすれば、それで良いのだが」

 奈多が小さく笑った。柏蛇にまったくその気がないと思っているのだ。
確かに闘う必要があれば闘う。しかし、いつまで戦い続ければいいのだ。何時かは疲れ、動けなくなり、最後には皆殺しにされるのではないか。
 しかし、果てばかりを見てもいられない。

 村を訪ねてくるのは何も難民だけではない。数十数百でまとまって全てを奪おうとしてくる賊徒もやってくる。
 時には、それが数百どころか千人にもなって来る。今のところ、山中に罠を張ってそれを防いでいるが、いつまでもそうしていたくはなかった。
 無関係な者で、引っ掛かるのがどうしても月に数人は出るのだ。一度、奴らにも徹底的にこちらの力を見せつけておく必要がある。

「ルイスがカインの首を取れば、また先が見えなくなる。遠いな、一体どこまで先を行けばいいのか」

「柏蛇様は、里を導く光です」

 柏蛇は曖昧に頬笑んだ。それをどう取ったのか、奈多は恥ずかしそうに俯いた。口にすることではなかった、と思ったのかも知れない。
 夢だった。里を、どこの国からも切り離したものにする。それは一つの国を作るのと同じ事だ。
 誰にも邪魔されない国。誰にも犯されない国。

 今の国は、あまりに巨大すぎるのだ。国という巨人が動くために、毎日何百何千もの人が命を使い潰されている。その足で踏みつぶしてすらいる。そして今のこの国はそれにさえ気付かない。いや、それが当然とさえ考えているフシすらある。 
 だから、国はもっと小さくあるべきなのだ。その上で、国家同士が共に協力し合えばいい。争いになったときも、他の国がそれを仲裁出来るようになればいい。

「遠いが、決して届かぬ距離ではない」

 隣で奈多が頷いている気配がした。まずは、ルイスが勝つか否かだ。

 風は、いつも山から吹き下ろされる。それに立ち向かって一人体を奮わる日々だった。今は、背に三千にもなった民がいる。
 柏蛇は、青い空と、広大な土地にようやくまともな家が建ち並び始めた里を見詰め続けた。

                                                          (三話に続く)



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